そこらへんにいるアラサーのつぶやき。

口も悪いし酒癖も悪い。でも根はまじめ。日々学び。

セルフブランディングって難しいと感じた話。

本日、釈然としないことがあったので

この感情を成仏させるべくここに記すっ

 

まず、一体何がこころにもやをかけたのかというと、

仕事で不祥事が起きた場合の気の持ちようにである。

 

私の定常業務に、とある案件の請求書発行がある。

(少し特殊な案件なので、顧客対応は別の方が担当)

ふと、確認したいことがあり契約書を開いてみたら

4月から提供単価が変わっているのを発見した。

 

震えた。

 

4月・5月の2ヶ月分はすでに従来の価格で請求書を出しているし

なんなら4月分は入金まで済んでいる。

 

一瞬思考停止したのち、

私の頭の中には2つの考えが浮かんだ。

 

<モード冷静>

まずは何よりも、解決に全力を注ぐべきである。

細かい時系列や再発防止策は一旦置いといて、

・差額はいくらなのか

・これらの差額をどう処理すべきなのか

・どのように先方に説明するのか

早急に対処すべきという前向きなビジネスライク思考。

 

<モード動揺>

・なんで価格が変わったことを共有してくれなかったんだろう。

・大事なことだから普通伝えるよね・・・?

・これは処理した自分だけの責任なんだろうか?

と保身したくなるような、言うなれば被害者的な考え。

これから先方に謝罪を入れる自分が

ハズレくじを引いたような気にすらなった。

 

ただ、モード動揺の感情について

あまり好ましくないという客観的な視野も持っている。

願わくばモード冷静の考えに終始し、後者は鳴りを潜めていてほしい。

 

なぜか?

それは単純に、

モード冷静でいた方が生きやすそう

と思うから。

無感情で生きる、ということではなく

人を許せたり、物事を前向きにとらえたり、自分を必要以上に責めない。

そんな風に世界を見れたら、人間関係も楽(快適で愉快)なのでしょう。

 

加えて、【朗らかな人格】というものに憧れがあるから。 

 

朗らかな人格とは? と考えた時に、

私はすごくさわやかな人柄を想像する。

陰か陽かで言えば確実に陽で、

土方歳三沖田総司で言えば沖田総司で、

伊黒さんか煉獄さんかで言えば煉獄さんなのである。

 

最後のたとえは社会現象にもなっている『鬼滅の刃』で

サイド人間の幹部陣キャラです。

(サイド鬼の幹部連中は弱いからボスに首切りされた)

適当にどんなキャラ設定なのか説明すると

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左側が伊黒さんていう、首に蛇をまいてるような

それはそれは中二病代表みたいなキャラで

闇の力でも持ってそうな風貌だけど普通の人間なんですね。

彼はとても皮肉っぽくて嫌味をネチネチ言い続ける性格として描かれている。

伊黒さんの名誉のために言っておくと、決して悪い人ではないし

好きな子と文通しているかわいらしい一面も持ち合わせている。

いわばギャップ萌え男子なのだ。

 

かたや、右側の煉獄さんっていうのが

松岡修造を2次元化したような人物で

「みーーーーんなまとめて俺が面倒みてやんよ!」的な

生粋のヒーロー気質なキャラクター。

主人公の炭治郎なんて、1回しか任務ご一緒してないのに

2年間指導してもらった師匠よりも煉獄さんを慕っているのでは?と思わせるくらい

心酔している煉獄信者の代表格になっている。

 

 

ここで重要なのは、

煉獄さんと伊黒さんのどちらが人として素晴らしいのか、

良いのか悪いのか、ということではなく

単純に自分をどんな人格としてブランディングしたいのかという

好みの話ってこと。

 

なんなら、私は旦那の次に土方歳三が好きと言っても過言ではないし

世が世なら背中を預けて一緒に戦いたかった、とすら夢想する始末。

 

とにもかくにも、私の理想としては

煉獄さんのような求心力あふれる個性とか

沖田総司のように冗談を言ったり誰にでも笑いかけたり

みんなが寄り付かないような人にも忖度せず接することができる

(と描かれることが多い)そんなスッキリとした人柄でありたいと望んでいる。

 

でもです、

そう上手く機能してくれない自分の感情に苦心したり、

望ましい立ち振る舞いや言動ができなくて歯がゆかったり、

そんな時は、「あれ、自分を偽っている?」と首を傾げてしまう。

じゃあ、自分が理想とする人格になれないよーとわめいている、

今の現状の自分の人格はどこから来てどうやって培われたんだろう。

 

人格を天然ものから養殖に置き換えるみたいな

不毛な作業をしようとしてるのだろうか?

 

天然ものの良さを認め、伸ばし、味わう。

それが俗にいう『自己受容』とか『自己肯定』というもので

そのような余裕が必要なのかもしれない。

 

だけど、自分がこうなりたい!と追いかける人になるべく

日々精進するのも、人生の修行なのかもしれない。仏教的に。

 

つまるところ、自分という生き物がよくわからない。

自分であるがゆえに、自分を100%理解することができない気がする。

 

32歳でいつまで思春期引きずってんだって自嘲しつつ、

たぶん人間は一生この類の葛藤を抱えながら生きていくだろうから

まだまだ自分は青いなぁと思ったw

 

今日も難しいこと考えた。

正解は不明のままなのでなんとも宙ぶらりんだけども

いろんなこと考えながら明日からも命を全うする所存。