そこらへんにいるアラサーのつぶやき。

口も悪いし酒癖も悪い。でも根はまじめ。日々学び。

幕末めぐり @東京 小伝馬町

東京というと、

メディアで紹介されるレストランたくさん

海外の有名作品が特別展で並ぶ美術館・博物館たくさん

屋外でも屋内でも遊ぶところたくさん

とイメージ持たれがちですが

歴史を感じるところもたくさんある。

 

私自身、東京生まれ東京育ちであるものの

(23区じゃないから、他県の人が全然知らないエリアだけど)

成人してから日本の歴史に興味を持ったので

今までどスルーかましてた所が星の数ほどある。

 

そんな場所にコツコツ訪れて、

どんどんログ残そう!というシリーズ化を目論む自己満な取り組み。

 

しょっぱなが小伝馬町とか超絶ニッチ。

 

東京メトロ日比谷線 小伝馬町駅

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小伝馬町駅4番出口から徒歩3分、時の鐘通り沿いの十思公園へ

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▼めぐれるスポットf:id:a-0v0-888:20200125223627j:image

 

 

①石町時の鐘

読み方は『こくちょう』です。

『いしちょう』とか『いしまち』じゃなく、石高の『こく』。

 (変換しても出ないけど)

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時計がない江戸時代、人々は鐘の音で時刻を把握していた。

江戸の市街地拡張に伴い、時報の役割を果たす時の鐘は

江戸城を囲うように9カ所設置。

その中でも、石町は(修繕はしているものの)鐘が現存していて

鐘が東京都指定文化財に指定されているちょっとすごい鐘。

 

松尾芭蕉の句にも時の鐘は登場し、身近な存在であることがわかる。

「花の雲、鐘は上野か浅草か」

 

しかし、今の世の中時計があるなんてほんと恵まれてる。

 

手首に目を向ければ秒で時間わかる。

スマホ傾ければ秒で時間わかる。

Siriやらアレクサやらに聞けば秒で時間わかる。

 

マジで時間わかりすぎ。

だからこそ、時間を無駄にしてないかとか敏感になるんだと思う。

完全なる便利病の1種。(時計をディスるわけではないけど)

もっと、朝日とともに起きてきて夕日の前に寝てしまう、

南の島のかめはめ波大王みたいな生活したっていいと思うよ現代人。

 

さっそく話が脱線してる、さっすがまとまりのない女。

戻りましょう。

 

吉田松陰終焉の地

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幕末、彼が教えた長州萩城下の松本村(山口県萩市)にある松下村塾からは

久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎伊藤博文山県有朋など

そうそうたるメンバーが輩出された。

この人たちが有名だから「育てた松陰すごい」みたいになってる。

実際、思想家としては優秀な人だったんだろうけども

薩長同盟の成立に尽力した坂本龍馬とか

江戸城無血開城を取り決めた西郷隆盛勝海舟みたく

わかりやすくこれーーー!っていう実績がない印象。

(松陰先生についてあまり詳しくなく、お慕いしている方すみません)

 

松下村塾の創設者と思われがちな松陰だけれども、

創ったのは彼の叔父である 玉木文之進さんなので注意。

 

松陰 辞世の句も彫られているので、

吉田松陰って最高ー!!!!!」

 という松陰ファンにはぜひ訪れていただきたいスポット。

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身はたとひ

武蔵の野辺に

朽ちぬとも

留め置かまし

大和魂

 

司馬遼太郎先生の『世に棲む日日』を読んでいくと

なお感慨深い。

 

 

小伝馬牢屋敷跡

 

その名の通り、江戸時代に牢屋敷があったところ。

いまは十思スクエアというデイケアセンター?になっている。

駐車場スペースの下に出土した、

当時の井戸に使われていた木材を見ることができる。

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見えにくい…

 

小伝馬町牢屋敷展示館

 

「十思スクエア別館」内に牢屋敷内部の模型があるけれど、

背筋が凍るほど入り口がわかりにくい。

入口がわからず周辺をだいぶうろうろした。。。

十思公園で子供を遊ばせているパパの私を見る目と言ったら…

 

普通に「十思スクエア別館」の入口から入ればOKだった。

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模型はこんな感じ。

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牢屋敷は総面積約2670坪(8,800㎡)

サッカーコート1面が7,140㎡らしいので、それよりは広い。

東京ドームで言うと0.62個分のようなのだけど

東京ドーム6割って全然イメージわかんな。。

 

江戸時代の牢屋敷は、

取り調べ中の容疑者を、刑が確定するまで閉じ込めておくものだったので

判決が出ればすぐに刑が執行される感じだったらしい。

この敷地内に首斬場(死罪場)もあったのですー。。

 

身分によって収容される部屋も異なるし、

拷問の種類によって行う場所も異なったようです。

 

伝馬町牢屋敷に収監された有名人たち
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唯一名を連ねる女性、

好きな人会いたさに放火してしまった超純情娘、お七ちゃん。

殿方との出会いが火事だったから、また火事が起きれば会えると考えました。

素晴らしくかわいげのある乙女心だけど、

それで江戸を火の海にしたんじゃたまったものではないので

普通に取っ捕まってここに収監された。

最期は火あぶりになる火刑に処されました。。

ハンムラビ法典みたいだな。。 

 

あとその隣は、鼠小僧ね。

どうやら彼が義賊だったってのは嘘らしい。

 

このあたりから歩いて日本橋やら人形町やら行ける。

散歩にうってつけ。

今日はよく笑ったし、新選組の笑顔も冴えわたってますって話。

本日は父の日のため家族フルメンバー実家に集結。

結果、

 

 

めっちゃ楽しかった。

 

自粛もあり最近は全然帰ってなかったもんで

レアキャラになりつつあった私。

緑豊かな地元の空気感に高揚していることもあり、1秒も暇なし。

終始楽しすぎて、とにかくしゃべり続けた。

 

久々に会ってるんだから家族の話も聞けよって感じだけど

リモート勤務の状況の話とか

弟とタイ旅行した時の話とか

最近読んで面白かった小説の話とか

今住んでいる家の騒音が気になる話とか

自分が喋りたいことをただただ延々と発話し続ける様が

俗にゆう「あ~、真ん中っ子っぽいわ」ってやつね。

 

筋トレの話題にのってきて、

おもむろにベランダで下駄をはきスクワットし始めた母。

スクワットへたすぎ。

 

最高に笑ったーーーーー!

気持ちのデトックスというのはきっとこういうことだ。

 

月並みですが、やっぱり笑うって大事ね。

 

私が超気に入っている素敵な記事の1つに、

幕末の志士たちの写真・肖像画

笑顔にしてみたというものがある。

 

これがまた、とんでもなくいい。

思ったんだけど、人が笑ってんの見るの好きだわ。

多分あれだ、人間には他人の笑顔からマイナスイオンを受け取れる

動物的本能が備わってるはず。

news.nicovideo.jp

 

中でも、大好きな新選組関係者には

にやにやせずにいられなかった。

 

彼らの笑顔を拝める日が来るとは・・・。

ありがたやありがたや。。

 

 

まずは、陸奥国会津藩9代藩主 松平容保

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色白で顎が細く、典型的な殿様顔な容保様は、笑顔もさわやか。

なんと…誕生日が同じでとんでもない親近感です。

あとガリレオ・ガリレイも一緒。

 

彼は実質最後の会津藩主。

攘夷志士たちの活動が日に日に活発になる京都の治安維持部隊、

京都守護職 という役職のが新設されました。

それに就任したのが、こちらの会津藩松平容保さん。

この人事には、正直納得いっていなかったと思う。

負担がでかすぎますと。

 

彼の本拠地は陸奥。すなわち会津若松市

会津支店から京都まで自腹で部下1000人連れて行って、

 治安維持に努めてもらっていい?!」とか言われたら

このご時世だしぜってー嫌だわ、と思うでしょう。。

実際、断り続けていたにもかかわらず

藩祖 保科正之(家康のお孫・家光の異母兄弟)が

「どんな時も徳川家のご恩に報いる☆」的な

『家訓十五か条』を作ってしまっていたものだから

最後はそれを引き合いに出されて就任することになってしまった。

その時、家臣たちは「これで会津藩は終わった・・・」と嘆き

抱き合って泣いたとか泣いてないとか。。

人の良さがご尊顔に表れている。

 

 

続くは、拳を口に入れる特技で沸かせた

新撰組局長 近藤勇

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マジで超イメージ通り。。。

武骨だけど面倒見のよさそうな表情。

 

私の母が調布出身なので、近藤さんの同郷であり

これまた親近感。

 

近藤さん、天然理心流剣術道場・試衛館の4代目ではあるものの

武家の出ではなく百姓の子。

そのポテンシャルで3代目 近藤周助の養子に抜擢!

実力で切り開いてきた、下剋上気質ぷんぷんのサクセスストーリー。

 

ただ生い立ちゆえに京都では田舎者扱いされまくるが、 

新撰組結成当初(当時は『浪士組』)に筆頭局長だった

あの水戸藩士の芹沢鴨を暗殺し新選組のドンになり、

最後は幕臣にまでなったわけですから。

そんな辛抱強さ・根性が笑顔に表れているよう。。

 

 

 

そして、新選組三番隊隊長 斎藤一

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彼は若い頃の写真がなく、おじいちゃんになってからの写真。

 

 

とても京都の町を震撼させた男とは思えない

すっごい孫可愛がってそうな明るい笑顔!

 

長生きしたこともあり、凄腕の剣客だったこともあり、

新撰組の中でも知名度は抜群!

るろうに剣心でも実名で登場するほど。

斎藤一の初登場シーンで神谷道場を訪ねてきたとき、

なんと石田散薬の箱を背負っている!

石田散薬とは、副長 土方歳三の実家が製造・販売していた薬。

歳三が若かりし頃、行商の際に背負っていた木箱。

 

これ、めっちゃじ~~~~んとすんねん。

永倉新八原田左之助の離脱(方向性の違いと言われる)、

沖田総司の離脱(病気)、

近藤勇の離脱(捕縛&処刑)と

武州の頃から一緒にやってきた幹部クラスとどんどん別れる中、

斎藤さんと歳三は会津まで行動を共にしてましたから…。

 

といっても、斎藤さんは新選組オープニングメンバーではありません。

浪士組結成時にはいないので、上洛したのは近藤さん一派とは別。

 

そしてついに・・・・・

永遠の推しメン、新撰組副長 土方歳三

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胸をえぐるような微笑みにごはん3杯いけます。

 

 

お顔もカッコいいと思いますが、何より彼の人生には

土方歳三』という劇的なストーリーができあがっちゃってる。

憧れずにはいられないわけです。

 

近藤さん同様、歳三も出身は農家(といっても豪商なのでリッチ)

奉公に出ても女性問題やら番頭との喧嘩やらで

長続きしなかったと言われる土方家の末っ子。

しかしながら、「武士になりたい!」という強い想いを秘めていて

実家に決意を込めて竹を埋めた熱い心の持ち主。

(この竹は今でも東京都日野の生家にあります)

 

そりゃ、真にやりたいこと・なりたいものがあるんだったら

それ以外のことは続かないこともあるでしょう。

 

薬の行商をしながら剣の腕を磨いていたところに、

将軍警護のため京に上る… という話が舞い降りる。

京都で開花した歳三の才能。

時世の流れのまま函館の地に散りますが

彼が指揮した局地戦は負けなしだった。

 

現代人が描き上げた「理想の歳三」の刷り込みがあることも

大いに自覚しておりますが、もう旦那の次に好きです。

歳三みたいに意志をもって生きてぇぇえ!!

 

私ってほんとに中2病ーーーーー!!

 

5月公開予定だった司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』。

劇場で5回は観んぞと気合い入れていたのに

コロナのせいで延期しちゃってんですけど最悪ー。

 

 

原作読み返しつつ、待つのだ。

『忠臣蔵』が純粋に美談と思えないの、私だけ…?

忠臣蔵といえば、

日本人の大半が大好物であろう、

大義 忠義の感動ものがたりの代表作の1つ。

あの作品はフィクションで1701年に実際に起きた事件がモチーフ。

 

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吉良上野介 屋敷跡 @両国

 

 約320年前、今の兵庫県あたりにあった赤穂藩(あこうはん)に

浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)というお殿様がいた。

 

それでこのお殿が、饗応役(きょうおうやく)っていう

天皇の命で江戸に来た使者を接待する宴会部長みたいなお役につくわけです。

この役は、関ヶ原の合戦以降に徳川家に仕えた

「やっべえ乗り遅れたけど俺ら徳川さんに尽くすっす!」的な

家康家にしてみたら1番心理的に遠い大名(外様大名)が

やるような役職だったらしい。

 

しかしながら礼儀作法とか知らないだろうからってことで

指南役がつくようになっております。

 

その指南役というのが、赤穂事件の被害者である

吉良上野介

 

キラ コウズケノスケ と読む。舌噛む。

 

ちなみに二人の年齢は親子くらい離れている。

浅野内匠頭(35)

吉良上野介(60)

 

指南者とはいえ、4,500石の旗本である吉良じいに対し

赤穂藩の浅野家は53,000石なので格上です。

 

にもかかわらずこの老人がすっごい厭味ったらしいとかで

こいつ超きらいなんですけどぉぉぉぉおお!!!

っていう感じだったようです、浅野さん。

 

そしてついに事件は起きます。

江戸城内で吉良じいとすれ違った時に

 

吉良さんに斬りかかったから切腹したっつーはなし。

 (元から計画していたのか、突発的なのかは謎)

 

いやいやこわいよ。

浅井ちゃん確実にサイコパスだよ?

 

厳しく(いびり半分)指導された中堅社員が、

いきなりキレて社内で上司に暴行加えるくらいの違和感よ。

いややりすぎっしょ? っていうね。

(現代人の感覚ですが)

 

そもそもイラつく小言を言われるってことは

内匠頭も失敗をしたんだろうけども、その理由も諸説ある。

 

① 意図的に嘘などを教えられて貶められた説

  ∟ 吉良家への謝礼が少なかったから吉良じいがおこ

  ∟ 女問題で内匠頭の失脚を狙った

② 内匠頭が無能説

 

しかし、吉良を襲った理由は正確にはわかっていません。

 

とにかく、天皇の使い(勅使)が来ているにもかかわらず

江戸城内で殺傷事件を起こすというTPOわきまえなさに

将軍も激おこ。

 

その結果、

内匠頭は即日切腹そして浅野藩お取り潰し!

 

となったのに、吉良はおとがめなし。(被害者だしね)

だけど普通は

「喧嘩両成敗っしょ?」

ってことで、大石内蔵助を筆頭に

残された赤穂藩の家臣(47義士)が仇を討つ!!!

 

というのが『忠臣蔵』のメインエピソード。

 

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とはいえ、この事件の数か月後に吉良邸は移転してます。

江戸城から離れた本所の地に。

 

上野介自身は家督を譲ってからはこの屋敷に常駐せず

上杉屋敷に寝泊まりしていたそう。

 

そして、この討ち入りの際に

吉良邸にいた無関係の人たちが何人も亡くなった。

 

 

最近、「忠臣蔵の美談は嘘だった!?」みたいなコンテンツを

よく見かけるけども、

 

 

・・・そりゃそうやろ。

 

別に私は吉良贔屓なわけではないし、

内匠頭の人柄も(優れた人だったのかもしれない)

当時の状況やふたりの関係性も知らずに意見すると

 

どんな理不尽なことがあったにせよ

人に斬りかかって切腹になったというのが事実。

 

その振る舞いで藩が取り潰しになったら

困るのは明らかに残された家臣たち。

53,000石ともなると、結構な人数を雇っていたはず。

武家には、身分料ともいえる石高に応じて雇わなければいけない

 奉公人とか女郎の数が決まってた。だいたい100石あたり4人。

 

あと武士って結構借金が多いから、(武家へは利息も高い)

返済されずに困った商人も多いんじゃないかと予想。

 

私にはどうも内匠頭は一時の感情で流されたというか

ちょっとばかし浅はかだったんじゃないかなと感じる。

 

しかも、彼の切腹など処罰を決めたのは

吉良本人じゃないし。

 

吉良屋敷で殺された人たちのことを考えると

一概に美談なんて言えないじゃんって感じていたし

むしろ他にもやりようがあったかもしれないんだから

ずいぶん身勝手な印象操作してんなぁとさえ思う。

 

ただ、平和が続いた時代に

歌舞伎や浄瑠璃の題材とするには

かなりホットでキャッチーだったのは納得!

これを作品にしようとした戯作者がすごいわ~。

私も忠義ものとか歴史ロマン大好きなんだけど

なぜか忠臣蔵はそんなにしっくりこない・・・

 

でも忠臣蔵のその後を題材に描いた作品である

最後の忠臣蔵は超よかった。

嗚咽漏らすくらい泣いた。

 

役所さんマジで最高。

瓦版!!!!って結構おちゃめ!!!

最近、新聞読んでないなー。

出社してた時は行きにコンビニで日経買ったりしてたんだけど

自粛してからもっぱらWEBニュースに頼ってしまってる。

日経電子版とろうかな。。

 

さてさて、江戸時代の新聞と言えば。

何やら紙の束を抱えている人に群がる町民…

もはやバーゲンセールさながらひったくる勢いで

「こっちにも1枚ちょうだい!」とつかみ取る。

 

彼らの戦利品は『瓦版』

当時は『読売』『辻売り』『一枚刷り』と呼ばれ、

新聞というよりは大衆雑誌の性格が強かったよう。

 

しかしこの瓦版には、2種類ある。

1つは、夕方ごろに鳴り物を率いて派手に登場し

歌うようにゴシップネタを売りさばく系セールスマン。

 

杉浦日向子さん著の『お江戸でござる』によると

三つ目の人魚が越中湾に出た

というとんでもない大法螺が書いてあるんだとか。

 

しかも頭1メートル、全身で10メートル

(一応10頭身のスラッとバディ)

脇のところに目が3つあり

顔面とあわせて5つ目。

 

どう考えたって嘘だし、

どうせ嘘つくならもっとまともな創作しろと言いたくなる。。。

しかし、それは江戸っ子だって百も承知。

「瓦版は話三分」と、騙されることさえ楽しむ気風があったそう。

笑えることは笑って楽しもう!というスピリッツ。

飲み行く前にネタとして買っていくんだとか。

すばらしいよ、もし私だったら

週刊誌買ってこんな記事書いてあったら

 

即刻破り捨てるけどww

 

脇に目が3つとか絶妙に気持ち悪くて

考えただけで鳥肌立ちそうDEATH。

 

ささいなことで楽しもうとする、江戸っ子の気概が尊い

 

そして一方、こちらの方が瓦版としては一般的なのが

顔を隠した二人組で、地味~~~~に売る系セールスマン。

 

内容は時事ネタが多く、信ぴょう性は高いけれども

正規の出版物ではないため幕府の取り締まりも厳しかった。

岡っ引きと呼ばれる、チクり屋的存在にバレないよう

常に二人組で回りを警戒しながら売っていたらしい。

ジャーナリスト魂を感じる。

 

御政道に対し批判的な内容を書こうものなら、

罰せられるリスクが高いので

印刷して配る代わりに「筆写」でパパっと販売しました。

1枚の原稿をみんなで書き写して、読んだら捨てる。

購入側も処罰の対象になるので、すぐ燃やすんだとか。

言論の自由が制限されている・・・。

江戸幕府は威厳がないと成り立たない側面もあったので

お上の情報統制はかなり厳しかったんでしょう。。

 

記録が現存する最初の瓦版は、

1615年発行の『大坂安部之合戦図』と『大坂卯年図』

書いてるのはもちろんあのビッグニュース。

 

大坂夏の陣

 

江戸の創設者 徳川家康

豊臣秀吉の遺児 秀頼とその母 淀殿を討ち、

豊臣家を滅ぼした内戦。

 

どちらも、幕府側の圧勝&徳川の世が訪れたことを

世間に知らしめる役割を担ったのです。

 

私、個人的に大坂の陣はすごく好きな戦で

ドラマチックなものを感じずにはいられないのだけど

実は完全に豊臣派。

 

江戸も大好きなので徳川様には感謝しているのですが…

のちに新選組とか幕府側の組織に心酔するので言いにくいんだけども。

 

それでも、大坂の陣は、大坂方が好き。

(大事なことなので2回言う)

 

又兵衛・・・ 重成・・・ 幸村・・・

この辺の武将が好きすぎて、

一時期ずっと調べてたんだけど

旦那以外の男の尻をこんな必死においかけて

いったい自分は何やってるだろう、とたまに冷静になり申す。

 

いやでも私が基本的に胸を熱くする殿方って

だいたい故人だから安心でしょ。。

どう頑張ったって間違いが起こらないようになってます。

歌舞伎座がないのに歌舞伎町。

旦那がそぼろご飯大好きすぎるどうしよう。

こだわり強すぎて絶対自分で作るんだけど、

めちゃくちゃ美味しいんだけど、

味濃い族だから塩分の過剰摂取が気になる。

うちのおじさんが健康で、むくまないでいてくれることを願う。

カリウム入ってる食材はむくみ解消に効くらしい。

 

さて、緊急事態宣言が明けて1週間ほど経った。

この1週間、油断大敵なことはわかっていても

自粛中に蓄えていたボルテージを一気に噴出させるかのごとく

たくさんの人が外に繰り出しております。

私も、ちょっとなら大丈夫かなとの気の緩みで

KALDIとか行っちゃってますわ。

 

そこで「第2波くるんじゃないか」という心配が渦巻いている最中、

今月になってから都内の新規感染者のおよそ4割が、

夜の街・歌舞伎町で感染しているという報道。

 

それ聞いてね、思ったんです。

 

 

なんで、歌舞伎の劇場があるわけでもないのに

歌舞伎町なんだろう、って。。

 

調べたことを超簡潔に要約すると、

戦後の町おこしで歌舞伎座を造ろうとして

先走って歌舞伎町って地名をつけたけど

なんだかなんだで歌舞伎座は造られず

代わりにできたのがコマ劇場だよ、って話だった。

その幻の歌舞伎座は『菊座』という名前に内定していたそうで

あわせて菊町になる可能性もあったよ、ってことでした。

へぇ~~~。

8へぇ~~~(昭和生まれは知ってる某番組のあれ)

 

新宿に歌舞伎座かぁ。

やはり日本人は伝統芸能の歌舞伎が好きなんだなぁ。

 

十三代目市川團十郎白猿を襲名していた歌舞伎界のプリンス・市川海老蔵さんが

何年か前のインタビューで

「娘は歌舞伎が好きだけど、女の子は歌舞伎ができない」と苦悩を話していた。

今では女性の歌舞伎役者はいないけれども、

発祥まで辿ると、出雲 阿国(いずものおくにという女性が始めたもの。

いつ頃か時期はハッキリわかっていないものの、

徳川家康征夷大将軍となった(慶長8年/1603年)あたりから

記録に登場し、このころ人気絶頂だったらしい。

剣とかもって踊る。

 

人気に便乗して女歌舞伎劇団は増えたらしいけれど、

マーケットが拡大していくと競争が激しくなるのは世の常。

例外なくレッドオーシャン化した女歌舞伎市場では、

「芸」では稼げないところも出てくる。

 

そして代わりに、ある付加価値を武器に勝負する。

それが、

 

「色」を売る

 

ということ。いや~~ん。

街づくり真っ最中の江戸時代初期の江戸では

男性比率の方が圧倒的に多かったので

需要も大きかったことでしょう。

 

今も昔も、そういった欲求を満たすことは

立派なサービス業の一つとなりえるわけですね。

当時の衣装は露出が多く、ひわうぃ~な恰好だったようです。

 

もう風紀乱しまくり!と幕府が危惧したため

寛永6年/1629年、女性の歌舞伎は禁止になりました。

 

それですぐに今の形になったかというと、Non Non Non

次に現れるのは、若衆歌舞伎というもの。

 

若衆というのはU18の美少年たちで

今でいうジャニーズJr.みたいな感じでしょうか。

さぞ女性客から熱い視線を送られたに違いない…!

 

と思うけど、当時の江戸は文字通りの男社会。

 

 

…そう、熱い視線を注ぎまくっていたのは

男ども!!!!

 

当時、衆道といって、

武家社会のBLは超オープンだった。

 

戦国の世、女性を戦場に連れていけないので

血気盛んな武将たちはどのように性欲を処理したか?

若くて器量のいい家来をかわいがったのであります。

 

第3代将軍 徳川家光腐男子であり男色を好んだそうです。

 

女歌舞伎から若衆歌舞伎になっても、

当然「色」を売る役者がいるわけだ。

だって儲かるんだもんね、そりゃやめないよね。

 

平成はアイドル戦国時代だったけれど、

そんな感じで推しメンをがいて、ファン同士で争い、

風紀も治安も乱れまくったから幕府おこだよ。

そりゃそうだよ。

 

ということで、同じ理由で禁止されます。

承応元年/1652年の出来事です。

 

そして、ついに登場するのが

現代に通ずる野郎歌舞伎。

 

・・・野郎って。

すなわち成人した前髪のない男性がやる歌舞伎。

(江戸時代、成人した男の子は前髪を剃る文化)

 

ここから、いよいよ実力主義の世界になり、

芸のうまさや客を魅了する表現技法が評価されるようになったそう。

 

テレビとブログでしか見たことないけど、

堀越勸玄くんを陰ながら応援しているので

いつの日か銀座の歌舞伎座へ観に行きたーい。